満州へ No.2
旅順へ
とりあえず朝からお風呂へ。 ややっ!お風呂のドレンが壊れている・・・。(T_T)
7:00 朝食 アメリカンブレックファースト:ブッフェスタイルらしいが、周りは全て中国人。
メニューは、中国風の野菜の煮物が中心のようだ。 白菜の煮たのが美味しい。でも、冷えたマンドゥがイマイチ・・・。 明日は外の屋台にしよう。(^o^)/
朝食後、再び周辺を散策。
朝市が出ている! 美味しそうなマンドゥも湯気を上げている。 明日はここだなぁなんて思いながら水をGet。さあ、今日は旅順へ。
8:50 旅順に向けて出発。
大連から旅順は片道約45km。約1時間ちょっとのドライブだ。
といっても、旅順は今も軍港。 一部の観光スポットを除き非解放区なのだ。
だから、街なかや港を外国人が散策していると公安に身柄拘束される可能性大。
トラブルはめんどうなので、観光バスで旅順へ。
広い道路をひたすら走る。 道路に並行してLRTが走っている。 あれに乗ってみたいなぁ。(+_+)
そんなこと考えているうちに、旅順市内に到着。
まずは、「東鶏冠山北保塁」へ。(ここは、観光客に開放されてるが入山するには許可証が必要。)
ここは、東鶏冠山(←山の名前デス)に築かれた日露戦争時のロシア側防御要塞跡。
1904年の日本軍の第1回旅順総攻撃では、攻撃した日本軍は全滅したらしい。 ロシア軍の指令部の壁には無数の弾痕が残っている。。。
どうやって、日本軍はここを陥落させたのか。
それは、トンネルを堀り、司令部の地下から肉弾戦で爆破したらしい。日本らしい攻撃の仕方だと思ったが、その攻撃で日本兵約9000人、ロシア兵は全滅したのだ。
何とも、聞くだけで身震いしそうな場所。 いろんな思いを胸にバスに向かう。
次に向かうのは、ここから北西にあるあの有名な「203高地」へ
途中、軍港があったが勿論、降りることは出来ないので車窓から。
やや、大連駅があった! ここは、東清鉄道の終着駅。100年前の姿がそのまま残っている。
しかし、軍事訓練中だということで、バスの停車も許可されない。。。
ゆっくりと通り過ぎる車中から写真を一枚。
ここ203高地は、旅順港を見下ろす絶景の場所にある。
日露戦争、最大の激戦地となったところだ。
1898年に帝政ロシアは清朝から東清鉄道の敷設権を獲得し、遼東半島の租借してからこの旅順に極東艦隊を配備したのだ。
その後、日本とロシアは、朝鮮半島と中国東北部(旧満州)の支配権を巡って衝突。日露戦争が勃発した。
日露戦争海戦後、ロシアのバルチック艦隊(司令長官:ロジェストウェンスキー)が極東方面に向け出航したため、到着までにここ旅順港を攻略する必要があった。
そのため、乃木希典将軍率いる帝国陸軍はこの「203高地」に総攻撃を開始したが、甚大な被害をこうむることになった。
1904年11月26日に第3回旅順総攻撃が開始され、12月5日にようやく占領したも、この攻撃で、乃木希典将軍の次男も失うことになった。
また、「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」の出撃命令で日本海海戦は、日本とロシアとの間で戦われた。
また、連合艦隊旗艦「三笠」(←今でも横須賀港にあります)へのZ旗を掲げた。「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という意味の信号旗だ。
このロシアバルチック艦隊に対し、日本連合艦隊(司令長官:東郷平八郎)は、バルチック艦隊に対し訓練豊富で優勢に立ち、作戦参謀:秋山真之の緻密な戦略と計算によって、二日間の激しい砲撃戦の末、ロシア艦隊38隻のうちウラジオストクに辿り着いたのは4隻という潰滅的な打撃を与え、見事勝利をおさめたのだ。
当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いたということ。
乃木将軍はこの戦争の終了後、この高地に散乱していた砲弾を集め、山頂に「爾霊山」と記した記念碑を建て戦死社を弔ったのだ。
今でも、山頂にはこの記念碑が残っている。。。
歴史の舞台の真っ只中に立っている。凄い・・・。
旅順、最後の訪問地。 「水師営」へ
ここは、「203高地」の陥落を受け1905年1月1日に帝国ロシア軍、旅順総司令官ステッセル中将から降伏の申入れがあり、翌日に日本側がこれを受け入れ旅順での戦闘が終了した。
そして、1月5日にここ「水師営」で乃木将軍とステッセル中将が会見を行った有名なところだ。
この民家は元々日本軍の野戦病院として使われていたそうだ。ロシア軍委員控室が当時会見が行われたところ。ここ会見室にある木のテーブルは当時のまま残っている。(手術台だったそう。)
「203高地」とここ「水師営」はずっと来たかったところ。
さあ、大連に戻ろう!
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